週刊新潮 「変見自在」 比のマッカーサーとロムロ。

週刊新潮 9/12号 高山正之のコラム「変見自在」に米国のフィリピン統治の話があった。

政治というのはおおむねこのようなモノだと思っている。
かいつまんで紹介する。



20世紀の初め米国はひどい手口でフィリピンを植民地にした。

米国支配に抵抗するものは膝と肩を1日1発ずつ銃で撃ち十分に死の恐怖に慄かせてから殺す「週刊銃殺刑」や「水責め」が行われたと米上院の記録に残る。

水責めは大の字に寝かせじょうごで泥水5ガロンを飲ませる。拷問でふくれた腹に米兵が飛び降りると「土人は6フィートも水を噴き上げて絶命した」。
アーサー・マッカーサーが指揮した「土人殺戮」は自己申告で20万。実数はその数倍と言われている。

フィリピン人はあまりの恐怖に制圧者に媚びるようになったが、米傀儡政権の大統領ケソンもさることながらその秘書官、カルロス・ロムロのへつらい方は徹底していた。

ロムロの父は反米闘争のリーダー、アギナルド将軍の副官であった。
米軍にとらわれた父が水責め拷問される現場を観てロムロは米国に媚びる道を選び、アジア諸国を歩いて欧米の植民地政策を肯定的に描いてピュリッツアー賞をもらっている。

文章力はある。これほど都合のよいアジア人はいなかったからマッカーサーはすぐに宣伝担当副官に任命した。

日米開戦後、日本軍がフィリピンに上陸するとマッカーサーはさっさと豪州に逃げ出すがそのときケソン大統領に謝礼を要求する。
ロムロは祖国フィリピンを食い物にする米国人のご主人さまのためフィリピン政府の口座からNYのマッカーサーの口座に50万ドルを振り込む作業を助けた。


豪州脱出後のロムロの最大の業績はたった60キロの移動を「バターン死の行進」にこしらえ上げたことだった。


2年後マッカーサーとロムロが戻ってくると、マニラに残る日本軍1万余の退路を断ち、4週間にわたる無差別砲撃を加えた。
街は破壊され10万人が死ぬとロムロの出番だ。
米軍報道官として「日本軍が住民を閉じ込めて火をかけ」「水牢に詰め込んで」殺したと語った。

ロムロはフィリピン人としても日本軍の残忍を語ったが、迫真の蛮行の中身はかつての米軍の行為のまま米軍を日本軍に変えただけだった。
しかしそれはフィリピン人にかつての恐怖を思い出させるには十分で、かれらは手のひらを返して日本軍いじめにかかった。
東京裁判のフィリピン人判事はそれをうけてA級戦犯全員の死刑を主張した。

また、フィリピン政府は日本に対して破格の80億ドルの賠償を要求、日本が拒むとモンテンルパに繋がれた戦犯14人を一晩でつるして脅しをかけた。

後略



米国の海外での悪逆ぶり(笑)だが、 自国民に対しても必要とあればするだろうなーと思う。

戦後70年に近い米国植民地を経て、本邦の政治家も同じ事をするのではないかと思うのである。

マッカサー、あるいはロムロと同じ事を。 (笑)