春蝶。 言いたくないが、、時代ということ。
去年の新聞を片付けていて
桂春蝶襲名にちなむ週間コラムを見た
桂春蝶はよくしらない
先代が亡くなったとき
通夜に桂枝雀が来て
明け方まで遺影をながめて微笑んでいて
枝雀の自死はその6年後とあって
業に魅入られた魂を見る思いだ。
40年前の枝雀は破壊的に面白くて
学生時代の仲間内でも
驚きをもって語られていた。
15年ほど前だったか
テレビかなにかで亡くなった枝雀をしのぶ
番組でかつての名演といわれた噺を聴いて
その古色蒼然にチャンネルを替えた。
おもしろいツマらない
正しいタダしくない…
すべてに
その時々の
時の支配があるのだと思う。
事務所の書庫を整理していると
1990年代のトレンド雑誌が
かたまって出てくる。
芸術新潮のバックナンバーも出てくる。
ファンション関係はともかく
ババア雑誌・芸術新潮など100年一日のハズが
びみょーにレイアウトが古い…
のである。
時代が置き去りにしていく
このセンスってなんだろうと
いつも思う。
1990年代創刊の頃の
ストリート・ファッション誌 「フルーツ」は
ほんとうにフルーティで
表紙を飾っていたのは
昭和30年代のおばあちゃんの服ががかわいいのでー
と、ごつい ジュン芦田系の織のスーツをまとう
10代の不美人・娘たちだった。
1990年代
不美人がオシャレだった
そういうトレンドが3年刻みで
美人・不美人を 往来する何年かがあったのだ…
時代は勝手にやってきて勝手に去る
いちいち会釈するに値しない
とは、
わが師匠
山本夏彦の言葉である。
そうとばかりも
言ってられないのですがねー
とも、思う。
せめて、相場トレンドには、
たまにはちゃんと、、乗りたい。 (笑)
■
■