友だちでいること。最後は団塊の悪口。
高校一年生だたっと思う。
一学期、現代国語でならった随筆だ。
「二人が長く友だちででいるためには、ともに何斗もの塩をなめなくてはならない」
という一文意」にであった。
なんと嫌なことを書くのかとおもった。
15-6才のころには、どれだけ友達がほしかったであろう。
どれだけ、自分の舌足らずなコトバに、わかる!といってほしかったであろう。
15歳で人生の味はわからない。
そして自分がそれを知らないことは、痛いほど実感している。
逃げ場のないこの世で、自分の言葉を聞いてくれる者を、一人で、
たった一人で、さがさなくてはならない、その空虚に、そのとりとめない時間に、戦慄した。
ついに我々は二流の恋をしてニセの友を友としなければならない。
と、山本夏彦の文章で読んだのは30歳もこえてからである。
十代でついに友を得ず、
而して30にして、ああ彼が友であったかと
思い至れたのは幸せであった。
自分の望むものを自ら知るべし。
はは、そんんなものは、病気だ。
できるものか。
話はとぶようだが、弱年のものどもには
私がハタチのときに聞きたかったようなことを話している。
そのような話をすると
「ああ、全部つながっているんですね!トリ肌たった!」と喜んでくれるのである。
全部しってるだろう?とわらうと、
「昔から知っていたことがつながりました」と晴れやかな顔をする。
つながって、つながって、自分から逃げなくてもいいのだと、
いつか、気づくよ。
そう、いつか、遠くない、
そうだ、いつもと同じ陽がのぼる朝だ。
あるいは、いつもと同じ、夕闇がせまる小道だ。
ああ、あれもこれも、あれもこれも、わがことなり。
週末、内田樹の本を読もう。
あんなに嫌った団塊の世代だが、
懐かしき、われらのニセの友よ。おろかな先輩諸兄。