俳句の哲学性について。うた、いのり。


ときどき、平井俊顕さん のブログを読ませていただく。

ケインズ研究がご専門の経済学者であられるようだが、オレの知識ではよく分からない。


ここしばらく、イタリアにご出張のようで、イタリアでも学会は英語で通じるんですかとお聞きしたところ
お応えと共に、下記のようなお返事コメントを頂いた。



イタリア人で、日本文化に魅かれる人は、まじで多いですね。話しぶりでそれが分かります。
今回、俳句の話を雑談でずいぶんする機会がありましたが、俳句を知っている人もいました。

芭蕉の「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」を取り上げて説明しました。
その哲学的雰囲気は彼らも同感していました。




哲学的雰囲気、、、
英語でなんていうんだろう?  フィロソフィック?  アトモスフェア?  ムード?  (笑)
わからない、、、、ほんと、バカだな、おれ。(笑)

そして、静けさ  「や」
この 「や」 がどういう前置詞になるのか、興味のあるところである。

さらに
岩にしみいる、はディップ・イン・ロック…  なのだろうか?




まあ、そういうオレの無知ゆえの疑問は置いておいて 「うた」 考察である。

蝉の鳴き声を西洋人と我々が、脳の違うところで聴いているというのは
学生の頃、伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」 ? だったっけで読んで驚いた。


西洋人は「騒音として」 日本人は 「言葉として」 虫の音を聴いている。
だから 「西洋に虫売りはいない」 という話だったけなー




そうであれば、もともとわれわれは虫の声を音律のあるコトバ 「歌」 として聴いているのであって
「音」 として聴いている西洋人と同じ土俵で話せるのか? という疑問が、まず一つ。


そして、連歌のなかから 「独立発句」 として切り離された 「俳句」 
連歌の世界を最初に規定する575」 であったものが、「余韻」 を武器に単独で成立したのが俳句である。


この跳梁の距離は、すでにあるものとして、連歌や俳句をみている我々には想像できない径庭
…というより次元と言った方がいい 「跳躍」を果たしている気もするのである。



思いつきと、印象を書きたくて、平井先生からお話を借りてきたので、、、、
あまり混乱しないうちに筆をおくが、、


連歌… ま、ぜんぜん知らない世界なのですが、
たぶんナニかを寿ぐというか、悼むというか、ある種の架空の競作叙事詩の世界から

俳句、個人的な 「いのり」の世界へのジャンプがあったのではないかと、、、思う。



タダの妄想で、あるが、

「うた」 に込められた 「いのり」について先日来 考えていたので
平井先生のお許しを経てここに文章を残しておく。



どなたのブログに 歌・唄・詩… の話を書いたっけ?

ああ、すいません。 憶えてない。。。



探したんだけど見つからない。 書かせて頂いた方、すいません。




言葉の成立と、その始原の 「うた」 の影響について最近よく考えます。

最初は 「コトバ」じゃなくて 「うた」 だったんじゃないの?   

じつは今でも 「言説じゃなくて 『うた』なんじゃないの?」 というコトを。



内田樹 「街場の文体論」 をもうすぐ読み終わる。
最初は初めから、二回目は最後のチャプターから読み直している。


3回読みおわったら、この本の中の

言葉の 「目的志向的プロセス」  ストカセティック・プロセスと、
自動筆記的なバルトのテキスト解釈

について書きたい。



この本では、見間違い&聞き間違い、について メタメッセージ :当事者性に 絡めた説明があるが

上の、 目的志向プロセス 「ストカセティック・プロセス」 を  「スカトロ ・プリンセス」   …「うんこ姫」

… と 読み違えたオレの、 当事者・意識って …どんなんだ ?  

うんこが俺を呼んでいる?   (笑)      


西部劇の題名みたいだな。  「遥かなる♪ 便所~ ♪」




平井先生、、せっかく御貸し頂いた論点なのに、 下品な文章になってすいませんでした。    九拝