交換価値、、などない。
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資本主義社会で提供されるのはすべて「商品」で、、、という荒っぽい話なのだが
その中で、モノには 「使用価値」 と 「交換価値」 があるという説明で、思い出した。
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「等価交換」
学生の頃、「等価のモノは交換しないんじゃないかな?」
と、思ったのだ。
例えば、吉野家の牛丼 「並」
わざわざ、テイクアウトで買って、吉牛エクスチェンジに持ち込んで、吉野家の牛丼 「並」 と交換しないよね。
等価交換って、そういうことを 「スル」 ってことでしょ。
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ひとは、等価のモノは交換しないんじゃないかな。
得するものとしか、手持ちのモノを交換しないのではないかと思うのである。
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事業は、
事業者、従業員、納入業者、お客様が、 それぞれ 「得」 をしたと思わなければ成立しない。
従業員は、昼寝してる時間とその間の時給が 「等価」 だと思えば、わざわざ出かけて行って働かないよね。
出かけてる時間が損だもん。
人間関係で気を使うのも 「損」 だもん。
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何かが交換されるとき、受け取ったものの 「質」自体がすでに変わっているのだと思う。
結婚によって、オレは人並みの苦労を背負える人生がほしかったのだし
女房は、女房の母親の 「釣書地獄」から逃れつ、オレに稼がせた生活費が欲しかったので
等価かどうか評価しようもない 「婚姻」 という身分上の法律行為をなして
お互いに、「給付関係」 を結んだのである。
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そこに 「等価」 という観念が入りこむ余地はないように感じる。
女は主観的に損する男と結婚しません。 見込み違いはまた別の話として。 (笑)
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そしてそこに 「貨幣」 が介在することも勘案されねばならない。
「物」 を貨幣に替えることによって、「物」 自体の社会的属性は 「社会価値ユニット」に変換され
何千倍もの 「自由」を得るのである。
その自由度こそ、貨幣の本質ではないかと思う。
それは、「等価性」 などには還元されない。
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大阪・九条のネジ工場のオヤジが、1万円分のネジで百貨店での買い物の支払い交渉をする苦労を思えば
金のありがたみと、社会的価値の 「否・等価性」 を想わざるを得ない。
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そして、それを考えると
「使用価値」 も 「人によって違う」 としか言えなくなるのである。
つまり、「価値」 の定義が、要素還元的に使えなくなるのである。
社会は テクスチャーとしてすでに織り上げられていて
その中の 「関係」 が連続的に自生する、自己生成的な営為過程である、、、というほか、
無い。
そんな気もするなあー と、マルクス系の言説に接するたびに思うのだ。
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