京都の夜、商品について少し考える。

12月も半ば過ぎ
久しぶりの岩本沙弓先生のグループから忘年会のお誘いがあった


会場は烏丸を下った寺の裏の小さなホール
第1部は 先生の経済解説と質疑応答

当然ながら岩本先生はトランプ相場には冷ややかである



あんのじょう 質疑応答は低レベルで、、キツい。

数名の老人とオバはんが今の政策や相場環境について、、、
質問してんだか、自分の考えを述べてんだか、新聞で読んだ話をしてんだか…  (泣


その中で先生が、 「日経平均ですか、 私見ですが 12000円が妥当な所かと…」と仰ると
30名の参加者から息をのむ声が…   

一瞬にして会場を支配する 静寂  …(笑)




第二部は、フード・アーティストの料理を食べながら
障がい者ファームのつくった葡萄酒などを飲むパーティ


その葡萄酒は洞爺湖サミットでも食前酒としてふるまわれたそうだが、、オレはビールにした
フード・アーティストの不気味な料理にも手はつけなかった。

「私にとって料理は 『表現』 です。」 との挨拶と見た目のアレな加減にビビったのだ。(笑)



料理は 『表現』ではなく、単純に 『もてなし』であると思っている。
自分を あらわして 分かってもらうのではなく、 相手のこころが満ちるかどうかの試みである。

それが分からないから アーティストが名乗れるわけで
そういう無神経が悪いとは思わないし、世の中に必要な鈍感さだというのも わかるが
オレは、そういう禍々しいものを口にしたくない。



そのほか

フェアトレードをしている女性焙煎業者や、
貧困家庭の子供にただで夕食をふるまう取り組みをしているグループの紹介もあった


フェア・トレードのバナナは20年ほど前に生協で買ったことがある
太くて立派で、味も香りもなかった
バナナ=商品 ではなく、ボランティアの参加ステッカーだなと思った。



フェア・トレード、あるいは善意に満ちた欠食児童支援などに接すると
公園でパンくずを播いてハトを集めている爺さんを想いだす

鳩にまみれて、無表情に大きく腕をふって数メートル四方にパンくずを播くジイさん
離れた場所から、逆光の中、影絵のようにパンくずを播くその人の人生を考える


若い頃、どこの公園だったかも忘れたが、、つげ忠男の漫画みたいだなと思った。



社会とは 「商品集成」をつくり、それを分配する営みであるようにも思う。

商品とは、
一定のスペックを備えた生産物=製品、とはことなり
顧客のこころを満たすものだと現場ではマーケティング的に教えているが、

つまるところ 「購買」 にいたる、実際に買う人の、「支払する人」 の情緒に行きつかざるを得ない。



経済の おおもとにあるのは、そういう 「情緒」である。

フェア・トレードなどに感じる、、ある種の「情感」とは違うものを感じるのであるが、、
上手く言えないが、これからも 少し考えようと思うので書き残しておく。