対等であること。 チャンチャン猿。
こないだ妹としゃべっていて
妹がお世話になってる電波・スピリチュアルの先生が
「人はみな対等。ただその役割が違うだけ。」
と仰ったそうで
対等でいい事ってあるの? と訊かれて困る。。。
対等だと「約束」とか「契約」が出来るようになるねー
と応えたものの
イスラム圏では、神の前では
スルタンも乞食もみんな対等だが
いざ契約になると、納期を違えても別のものを納品しても
「インシュアラー・アラーの思し召しだ!」
で終わりである。。。
対等概念もイロイロである。
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対等で悪い事って何?
と重ねて訊かれて
「組織がバカの理屈に引っ張られるね、、、、構成員の少なくとも 7割はバカか無責任だから。
対等なもの同士の議論で多数決をとって意思決定すれば、、会社なら潰れる。」
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メンバーシップとして対等でも
見識には違いがあるというのが
当然の暗黙の了解としてどこにでもあったはずだが、、
ちかごろ消えたのかもしれない。
オレがまだ若いころ、論理だてて物事を言おうとすると
「理屈を言うな。理屈と鳥もちはどこにでもつく。」
「分際をわきまえろ。」
と笑われて終わった。
大いに不服だったが、
実際にバカみたいなことを言っていたのも確かだし
そう言って教えてくれたオトナ自体が
自分が若いころに言われた通りの「わきまえろ。」を
特にナンの考えもなく
シワ一本なくつるんと阿保ヅラの
目下の俺に教えてくれただけなのだろうと
今は分かる。
社長だの店長だのが
部下にトンチンカンな指導を
おお得意でヤルのを何度も
ココロで泣きながら莞爾と眺めたからである。
何度も。
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人にものを教えるのは至難の業であり
また
人からモノを学ぶのは
どれだけ齢をかさねても
いまだもって、さらに、、むつかしいなと思う。
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ネジを巻くとシンバルを叩く猿のオモチャ
チャンチャン猿とよんでいたが
キオスクで 「もりかけ」 「赤坂自民亭」 の夕刊紙をみると
あの猿を思い出す。
みんなチャンチャン楽しんでねーと思うと同時に
自分の姿のようにも
思えて…
笑うしかない。
僅かな教養と見識の外に出られない
あわれな囚われの身である事ににおいて
もりかけの皆さまとは 「チャンチャン」仲間である。 (笑)
とても情けなく、 ココロから 悲しい。
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