二十億光年の孤独 谷川俊太郎

本屋の棚の一角を占めて、集英社文庫のナツイチが並んでいる
 
ほとんどしらない作家のなか、棚の一番右端に、谷川俊太郎「二十億光年の孤独」
五億年くらいだと思っていましたが、二十億光年でしたか、はははは。
 
私も、ご多分にもれず、俊太郎は、
10代で教科書で読んでへきえきした。
 
当時、自分の言説の舌っ足らずを恥じている年代の私にとって
俊太郎の、なれなれしい未熟さ 「ぼくはこうなんだ」
には吐き気がした。
 
 
書棚の薄い文庫を、怖いもの見たさで、手にとって驚く。
あれ!
 
いいじゃない、谷川俊太郎
 
巻頭の三好達治の推薦文も納得がいった。
 
たしか
「この若者は、いがいと遠くから来た」
で始まる三好達治の紹介文は
「かれはときどきくしゃみをするのだ」
といった文章で終わっていたと思う。
(買いはしなかったのである、はは)
 
三好達治は好きだったので、
なんでこんな作文に序文をかくのか?若いころは非常に違和感を覚えたが
自分も中年というより初老になれば、当時多分50歳位の三好達治の気分が分かる。
 
二十国光年の孤独
 
20歳の若い詩人を「いがいと遠くから来た人」としたのは
多分あたらしいオデッセイを感じたのだろう。
 
「くしゃみ」は身体感覚、その身体の感じる異物感?
はくしょん!と吐き出さざるを得ない言葉の意味だろう。
 
若き三好達治の自己イメージは孤独でミジメなカラスである。
「新しい子供」の詩として、俊太郎の詩は老人:三好達治には鮮烈だったである。
 
 
谷川俊太郎は戦後の偽善の幾ばくかを代表していた。
私は、そのいやらしさを憎んだが、あんがい、羨ましかっただけかもしれない。
 
俊太郎の親父は谷川徹三でバブルのころまで日経新聞でたまに読んだ。
戦後のある種の知性の代表として扱われていたが、
お書きになる内容は八方美人で空疎で気楽でバカと理解していた。
 
アホウのまま最晩年まで旺盛な活動だったが
なくなる年かその前、「僕には教養が無い」と新聞にかいていて驚いた。
お前!分ってやってたのか!親子で恥知らず!!の思いである(笑)
 
しかし
徹三になかったのは、教養ではなく、
なにかもっと別の大切なものである。
 
 
はなしはちらかったが、
徹三や俊太郎はともかく
作品:二十億光年のほうは、許してやることにした。