過剰情報  春に春が来る春の山

サマリーを読んでいて何のことかよく分からなくなってしまうのである。
過剰情報と言うか稠密というか、お笑いレッドカーペットである。
 
 
2000年頃、西垣 通 氏の情報概論的な本で
「情報はヒトが発して人が受け取るものである。」と読んで
そりゃあ、情報学的に交通整理するからでしょ、ばか!
と感じた。
 
ピカッと夜空が光ってどどんと大木が倒れれば
それは嵐の始まりなんだよ、人間ではない大気が発する稲光は嵐情報なんです
と思ったのです。
 
学問として整理するというのは立論するという事で
つまり、事実群からモデルを構築できる   ネタ探し → 盛りつけ
早い話が 料理である
 
料理屋で出てくる物だけが料理ではない
 
話が散らかりそうなので、ははは、書いててアレだけど
ご辛抱下さい
 
 
モノを読んでいて、知識、と情報の意図的な混同があるように感じることが多い。
一時期よく目にしたナレッジマネージメントなどインフォーメーションのことである。
 
カオスの逆数をもってインフォメーションとするなら
どこにナレッジの出番があるのだ?
 
投資情報をできるだけ集めて云々というのは「場」に立ってれば
それを無視してはいけないのは、よく分かるのだが…
あまり、いろいろなことを真に受けて相場を張りたくない。
 
 
未だコレを持って建てスタンスに整理しきれないから
こうして「冗冗談談」に書いているけど…
 
おたまじゃくしのシッポが取れてカエルになるように
春の山に春が来て 春の景色になるように
相場で建ってゆく…やり方があるように思うのである
 
 
投資ルールについて考えながら
スーパーのパック寿司をながめていてそうおもった
 
…パック寿司は  買いませんでした。