昔ばなし② 名古屋から戻って木場


昨日のつづきの昔ばなし。


むかし話のどこまでが自分の話かよくわからなかったうちの爺さんであるが
オレが13歳の時に死んでしまった。

孫と日向ぼっこをしていろいろ話をしてくれるような、静かな人ではなかったのであまりたくさんのことは聞かなかった。
小中学生の子供にしゃべれない内容のことも多かったのだろう。


二つ下の女房だった婆さんが「三十なんぼ商売したがな、、豆腐屋のくせに昼ごろ起きて来てどないすんねん。」と独り言のように言っていた。

撞球おぼえてきてなあ、自分で撞球屋始めて、ワシに仕込んで自分は遊びにいきよんねん。お客さんと四つ玉でコテンパンにやってしもたら、もう来てくれへんから、勝ったり負けたりしながら、最後に全部もうたらエエねん。」 賭けビリヤードで客をカモって稼いでいたようである。婆さんもそのころはまだ30にもなってなかったのでは無いかと思うが… 


名古屋で織物工場をやっていた話も爺さんから聞いたな。
ヒトの店を任されてうまくいったので自分で工場を持ったんだったかな。

オヤジからは「7つの時に大阪駅からのって名古屋についたら窓から名古屋弁が聞こえて来てそれが面白うて面白うてなあ。17の時今度は名古屋から大阪に着いたら同じように大阪弁が聞こえて来て、それが面白うて、、」と、この話もオヤジにしては珍しく2度3度としていたからよっぽど印象的だったのだろう。


名古屋では末広町に住んだとオヤジが言ったのは死ぬ1ヶ月まえだった。
ウチの長屋からちょっと行くと、軒の低い貧乏長屋があって沖縄と朝鮮の人ばっかりやったなあとも聞いた。
半島が日本だったころの話である。


別の折に聞いた「17の年に木場で半年 伝馬船を漕いで暮らした」という話がどういう意味か分ったのは、オヤジが死んでから社会保険庁じゃなくて年金機構だっけ?から母親の遺族年金の確認で
昭和17年5月1日から10月末日まで大阪市内で勤務実績がありますかと問い合わせが来た時である。

オヤジが働いた木場は婆さんの親戚のツテである。
多分、月末4月30日に大阪に舞い戻って翌日からオヤジひとりで木場勤め、、、

お父さん、友だちはいないの?幼い頃訊ねた時「小学校6年間で5回も引っ越しされて友だちなんか出来るかいな。」ト笑っていたのと考え合わせると、引越しの半ばは多分夜逃げである。

昭和17年の名古屋→大阪引っ越しは、爺さんが作った借金を4月末日の期日に返済できなくて家族で大阪へトンズラ。 そして女房の親戚を頼って子供の身柄をかわし、ジジイは次の商売の次の金策に走ったのだろう。

オヤジの兄貴は4つ上だから、、多分もう名古屋から逃げる時は徴兵で南方に行っていたんじゃないかな。

夜逃げの後、陸軍省にはどういう風に連絡するのかな?名古屋の連隊に入ったと思うのだが。。。


うーん、ジジイの話が人のおもしろ話ばっかりだったり、、、
また、オヤジの話が自分の中年以降の人生教訓ばっかりだったのが分かるなあー (笑)


若い頃、オレが一人前の口をきくとオヤジから「オノレごときに何が出来る!!」といわんばかりにタシナメられたのを思い出す。いらない苦労をしてきた人間の話はタメになる。

婆さんは、全く逆に 「いらん苦労はしたらかん。いらん苦労はしたらアカンでえー」 と言っていた。

「若い頃の苦労は金を払ろてでもせえ」 と言っていた母親と婆さんの人生の温度差を思う。