浩宮様がお生まれになった、今上(平成の)天皇が皇太子時代の話。

さくらさんから、質問があったので、お応えする。今上が皇太子時代のはなしである。

当時皇太子さまだった今上は完全にバカ扱いで、浩宮様=現・東宮様が昭和天皇の衣鉢を継ぐ方とされた居た頃の印象である。
オレも、別に皇室に興味があったわけではないので、昭和40年代にどんな話を聞いたか、の記憶だけである。
ただの、印象、思い出話のたぐいなので、昔ばなしとして書いておく。


ヒロヒトというお名前であることは誰でも知っていいた。
今上がアキヒト様でであることは、平成になってから知った。

今上のアキヒト陛下は皇太子殿下時代、「コータイシさん」と呼ばれて尊敬されていなかった。


お若い頃から今のようなご表情で、立派な父親と母親から生まれたアホぼんという報道トーンであった。
いつもニヤニヤへらへらしたお写真が、マスコミには出ていた。
われわれ子供は、お年もお若く、40前後でへらへらっしてらっしゃる殿下(当時)をあほうだと思っていた。


美智子様も「ミチコさん」と気軽に呼ばれたいた。
ご実家が、日清製粉創業家・正田家だったので、「粉屋の娘」と鼻で笑われてから、「おきれいでらっしゃる。」と言われていた。 
おきれいなプリンセス。ナルちゃんのお母様、但し粉屋の娘、というのが美智子様の属性のすべてだった。



お小さい浩宮徳人親王さまは「ナルちゃん」と呼ばれて、常に、マスコミが群がっていた。

1歳ころの私は、浩宮様に似ていたそうで、(笑)、、、、(1歳だからねー、、概ねみんな同じ顔)
母が市場へ私を乳母車に乗せていくと、「わあ!ナルちゃんがいらっしゃったー」とババアどもが沸いたそうである。母は美智子様のように笑って、群がるババに私を見せたそうで、「まあ、おかわいい、触らせていただいていいかしら?」などと、、、(笑)、いったい「ナニごっこ」なんだ!!!
もちろん、乳母車は、浩宮さまが乗ってらっしゃったのと同じタイプのゴツイやつである。(笑)

後年、小学校で  「おれ、、、浩宮さまに似ててなあ、、、」 と言いかけてヤメる同級生が二三人いた。
…どんだけの子供がナルちゃんごっこの対象だったんだ!!!  (笑)


浩宮様が、よちよち歩きをなさるとき、美智子妃殿下は必ず自分の人差し指を宮様に握らせてお連れになった。
ということで、外出の時は、私も母の人差し指を握るように教育された。
…何度か努力したが、握りにくいのと、握りたくないのとで、すぐに手を放してどこかへ行きたがるので
「しっかり」母が私の手を握ってひっぱっていくことに、訂正された。


ナルちゃんは美智子様の人差し指を素直に握りながら、反対の手にブルーのバスケットをお持ちだったので
私も外出の時は、ブルーの同型のバスケットを持たされた。 
「バスケットォ♪を持ちなさい!」と 私に手渡すとき、、母の目が歓喜にうるんだのを覚えている。

昭和40年代前半までは、どこの家にもブルーのバスケットがあって、百貨店ではどこでも普通に売っていた。
もちろん、幼児がバスケットに入れるべきものはないので、完全な「皇室ファッション」として流行っていた。


「ナルちゃん憲法」というのがあって、美智子様の育児方針として、人口に膾炙していた。
内容は知らない。 子供の教育に「憲法」という根本法と同じ原則が必要だと知って、ババアどもは驚嘆した。
が、焼け跡から15年少々の本邦に、一般家庭の新たな教育原則があろうはずもないので、すぐに廃れた。



…赤ちゃんから幼児のナルちゃん、ナルヒト親王様は、あたらしい、勃興していく日本の希望そのものでした。
とき、まさに高度成長時代。

新しい、豊な日本の希望が、ナルちゃんで、その戦後をお拓きになったのが「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」命に代えて日本をお守りになった「昭和天皇」陛下。

そして、その先代・昭和の陛下の苦労も知らず、嬉しそうにへらへらテニスに興じ、そのテニス場美智子様をナンパしたのがアホ・皇太子=現・今上陛下というトーンの報道が繰り返されました。


ながらくながらく、テレビは、今上、明仁陛下に対して、非常に辛辣だった印象です。




思い出す限り…   の印象です。


また、思い出せば書きます。さくらさん、いいご質問をありがとうございました。

ただし、5歳違うと、皇室報道の印象はかなり違うと思います。
私の記憶は、美智子様浩宮様の全盛時代の、「子供」、、として見聞きしたことです。