下品なマスコミ。大宅壮一のことなど。

マスコミは下品である。

マスコミとは、記憶違いでなければ、マスコミュニケーションのことで
マスと言うのはわれわれ市井の庶民のことだから
我々が下品なのだから、その代表的なコミュニケーション「マスコミ」も下品にならざるをえないというか、、
上品にやれば、、それはマスに対する裏切りなのである。 (笑)



週刊新潮高山正之のコラムを毎週楽しみによんでいて
裨益するトコロ大だが、書きっぷりが「下品」。


毎回、ほぼ左翼批判だが、意地の悪さが左翼バリで、、、同病相憐れむじゃなくて、なんと言ったっけ
人を呪わば穴二つ的に、内容ではなく、左翼の欺瞞をあばく、その言葉遣いが、、下品である。



20代の頃、マスコミの帝王と言われて久しい大宅壮一の文章を読んで
その高い見識に驚くとともに、あまりに下品な世界観と書きっぷりに驚いた。

週刊文春の有名な編集者であった名女川さんに「大宅壮一、下品っすよね?」と怖いものしらずに訊いて
「えっ?」と驚かれて、「えっ?」なんだと、びっくりしたのを憶えている。



言説、、、というものが根本的にというか骨がらみでもっている救われなさを思う。



それは、我々の真情そのものでもあるように思う。
救われないながら、つまらない人間でありながら、それでも、よりよく生きたいと思う「純情」を思う。


語ればそこに世界は現れる。
語られるべき世界のテーゼと、語る人の人生のモチーフの乖離を思う。
我々は、モチーフ・原風景の呪縛の中でしか、そのレンズを通してしか世界を感じないのかもしれない。


これに似た違う話が書きたかったのだが、飲んでるうちに思い出せなくなったので
…この話を残しておく。