庶民について。 と、決済。

先日来、森友加計・アンチ政権報道や、海老蔵の奥さんがどうの、について

 … 庶民はニュースで忙しくてたいへんだなあ

という文章を書いていると、けっこうコメントを頂く。



庶民というコトバは、
3割ほど読んで投げ出した
オルティガ「大衆の反逆」の 

「大衆」をイメージして使っている。



曰く、大衆とは

その社会的立場、財産、教養、など個人の属性にかかわらず

    「他人とおなじであることを人生の価値の根本に据える人」




… たしかにそういう方には日常的によくお会いする。



「みんさんスゴいですよ。新聞のとおり事件に対して解説なさいますから!」

とは、多くの中小企業を顧客に持つ保険代理店の社長から昔きいた言葉である。





「大衆が聴きたいのは 『有名な意見』ではなく 『有名人の意見』である」
とも若いころ読んで、納得した。

ああ、なるほどと思った。


当時の
1990年代における 「ケインズの再評価 (有効需要の時代的な再定義)」じゃなくて
「ビート・タケシの世相を斬る」 意見が聴きたいのである。



聴いておおきくうなづき、同じことが言いたいのである。





音楽、観戦スポーツ、芸能、、を観て

あるいは旅行をして楽しい方々は庶民、、「大衆」である。



残念ながらオレは

与えられたものを、再定義できないと気持ち悪くなるので、、
上のようなモノはだいたい苦手だ。



旅行なんか新幹線の車窓からギブの離散集落と山際に集まっている集合村落を見るだけで
村際収支と、利水の利権関係を考えて気持ち悪くなる。


家囲繞林なんかみると、どこの予算で枝をはらっているのか、、
また、標高差のない田畑で、
離散集落でどのように共同農作業をするのか考えて

  …吐きそうである。





「他人とおなじを喜ぶ」 以外に
「言説を疑わない」 も庶民の大切な資産である。




加計についていうなら

2012年だったけ?文部大臣だった田中真紀子
「いらんでしょ!」 と

新潟県だったっけの
もう建物も建ってるし、入学者も決まってるけど、
実際はいらない県立大学の許可申請を却下して
おおさわぎ…


数日後に、因果をふくめられて、許可を出したことを思い出すのみである。



なるほど、教育「箱モノ」行政というのは
そういうふうに動くのだなあと

納得した。




加計の話の筋道が違うようにみえるのは
われわれが行政手続きを知らないだけではないのかと

思う。


つまり、世間的には非常識な
しかし、むかしからフツーにやっている 行政・慣行を


時々、ネタで出してきて
騒いで見せて

行政府の貸し借りを決済しているのかなー   とね。





世間で一番大切なのは。

   「決済」

 である。



神道では     「お祓い」    と呼ばれている。


      ごはさんでねがいましては!  と算盤をかたむけることである。